人間【あさのめ】

後ろから追うように低く迫ってきた吹雪が、老婆の背中に叩きつけられた。小さな背中は大きなマントで覆われていたが、その中にすっぽりと納まった義英がいた。祖母ふぢえは、高熱を出してぐったりした初孫を背にしばりつけ、注射を打ってもらいに病院へ出かけた。大雪のなか老婆は足を取られながら帰路を急いでいた。

義英はその時のことを鮮明に憶えているという。

「ばあちゃん」と、か細く呼びかけると「雪が入っがら閉めとげ」とさとしながら、ふぢえはマントの襟を閉めてしまった。漆黒の暗闇の中でじっとしていると、ふとした拍子に襟が開き、どこまでも一面白銀の世界が見えた。低い家々の橙色の光が点在していた。その上を吹雪が斜めに流れていた。厳しいが穏やかな風景だった。寺の中にある小さな神社の格子の前に、ふぢえは立っていた。「助けてくだんにが」いそがしくこすり合わせる寒さで真赤になった細い指が見えた。

米国大統領ケネディは「日本で最も尊敬する政治家は」との問いに「上杉鷹山である」と答えている。鷹山は、京に上ろうとした名将なのではなく、貧窮に苦しんでいた小藩の政治と経済を立て直し、奇跡的な繁栄を導き出した東北奥州米沢藩の藩主である。積極的な彼の農業振興策の一つとして漆、桑、柿、胡桃などの木々を、百姓一人につき何本と割り当て、二百年経た現在、米沢は奥州山脈の懐の緑多き城下町といった印象がある。

義英の父、文夫は米沢の高校を卒業し、学業を修めるため、また当時の日本の青年の誰もがそうであったように、抽象的には自由を得るため、東京へ出た。大学四年の時、小学校教師であった昌子と出会い、周囲の猛烈な反対のなかで結ばれ浅野目義英が生まれる。

しかしながら、父と母の結婚は一年余で破綻する。四一歳なった浅野目は笑いながら言う。「どうしてそうなったか知らないし、知ろうとも思わない」その後彼は文夫の故郷米沢に連れてこられ、祖父母、叔父、叔母の慈愛を受け幼年時代を送る。埼玉県上尾市にやってきた六歳の時、文夫は再婚し義英に新しい母ができるが、この家庭も十年もたたず崩れる。以後団地で約十年一人暮らし。

一回目の選挙から一貫して支援し続ける互井一臣は「苦しいこともあったはずだが、絶対に人には話さない」と語る。大学に通い続けるために、子どもたちを集め塾をつくる。その他アルバイトを二十以上。浅野目の笑顔からはうかがい知ることが出来ない。
幸薄い少年時代に、強靭な意志と目的を達成する道をひるまず進む気概をもう獲得してしまっていた。彼は語る「すべてが自分の人生にとって必要であったこと」


上尾市立尾山台小学校六年の時に、しっかりと浅野目の生涯の路線を決定づけてしまう授業に出会う。

明治中頃、足尾銅山の鉱毒が渡瀬川を汚染し、村数十を荒廃させた「足尾鉱毒事件」の解決のために、敢然と働いた代議士田中正造を題材とした国語の授業である。農民の先頭に立ち、惨状を訴え続けた田中の生き方に、体中の血が走り回り胸がかっと熱くなった。浅野目は決意する。「人々の小さな幸せのために必死に働きたい」

小学校時代からの大親友山本秀正は「六年生の時も、中学の時も、高校の時も『政治家になる』と言っていた」と話す。小児科医の山本が高校生の頃「俺は医者になりたい」と話すと「医者は一人の命は救うことができるかもしれないが、政治家は多くの命を救うことができる」と浅野目に論破されてしまったと笑う。「いつ会ってもエネルギーを発していた」と重ねて言う。

全国でも極めて稀な二五歳の市議が誕生した時、上尾市には衝撃が走った。今まで誰も成し遂げることができなかった二五歳での初当選。農業や会社役員、政治家二世など力のある人たちが、議会を支配しがちだった風土で、決して豊かとは言えない研究員と教員の子が、厳しい選挙を戦い勝利した歴史をつくり出した。

若者中心のお祭り騒ぎのような盛り上がりなった選挙は、本人と支援者の必死の努力で、奇しくも年齢と同じ二五位での当選を導いた。当選報告会では、やはり初陣の時より支援を続ける加藤豊は「君の体はもう君一人のものではなく、君を心の中で応援してくれた全ての人のものになったんだよ」と浅野目にささやいた。挨拶を求められた彼は、そのことばが頭から離れなかった。「必ず、一級の市会議員になりたい」と宣言した。後は声にならなかった。


当選するなり臆さず初回の議会から登壇し発言する。浅野目は以後これまで、総務常任委員長や議会運営委員長に着任し、責任者として委員会関連の発言を制限された期間以外は、本当に熱心に質問を繰り返し続ける。その数一五〇項目以上。前人未到の数だ。

「市民と地域の連帯生み出すために愛されてきた歴史的な通り・坂の愛称をポールを立てて保全すること」「公共下水道、汚水、消防などのマンホールをユニークなデザインで飾ること」などを提言し実現させる。

上尾に転校してきた時、級友たちと担任の女性教師の家に遊びに出かける。一人が走りながら叫んだ「観音坂のとこだよ」。浅野目はその名を実にいい名前だと思い続け、ニ〇年余一度も忘れず、議会で保全するよう提言するのだ。

味わいのある街とは、音楽のように語りかけてくる街だ。と彼は言う。上尾市の市政施行三〇周年事業として市内のあちこちにポールが立てられ、歴史的に愛され続けてきた坂と通りの名の全てが保全される。


二八歳で男子を授かる。だがわずか七八〇gでの誕生だった。脳内出血をおこし瀕死のわが子を見た時、苦しみを代わってやりたいと震えながら手を合わせた。前述の医師山本秀正に電話をかける。憔悴した浅野目に彼は怒鳴る。「医師を信じろ、そして祈れ」。高校生の時とはいえ、「医師は一人の命を救うことができるが、政治家は多くの命を救うことができる」とは何と思いあがった考えだったのかと猛烈に恥じた。

「在日外国人指紋押捺制度廃止に向け拒否者が出ても告発しない」市長見解を全国四番目に確約させる。また「市役所自らが率先して聴覚障害者を採用して障害者雇用の風穴を空ける」ことを実現させる。「難聴児の豊かな教育のためにことばの教室をつくる」ことも実現にもちこむ。

全て各方面で話題となり報道機関の紙面を大きく飾った。新憲法下で成育した浅野目と他の議員との意識の明確な差異の結果であり、彼でなければできなかった仕事の数々かもしれない。「生と死の間をさ迷っていた長男の姿が、地球はもう差別などしている時を残していない。弱者と固く手をつなげる政治を形成することが急務との強固な意志を生ませ、私を平等社会実現の仕事の鬼とさせた」と浅野目は言う。

「若いのにいささかの危なげもなかった」「比類無き情熱と独特の迫力でこの上尾市を誰よりも変えてきた」と市役所の管理職の評価も高い。ごみ問題が持ち上がるずいぶん以前から、子どもたちに環境を守る心を学んで欲しいと学校での副読本づくりに情熱を注ぐ。駅前に捨てられている放置自転車を海外へ送れと訴える。それが真のODAと市に迫った。一人暮らしの老人が倒れたらどうする。ペンダントポケットベルを配備させる。雨漏り続く集会所の修繕工事費が予算化されないと知ると「予算がつけられるまで市長の机の上に座る」と強く語った。審議は水を打ったようになった。

いつも切り口が違っていた。「二十世紀と二一世紀をつなぐ青年として重い責任を感じている」。常に工夫を考え、浅野目は立ち止まることをしてこなかた。それが政治と信じ、ただならぬ情熱を胸に刻み突き進んできた。「先輩に眉をしかめられるようなことが改革とも思ってきた。」長いものに巻かれない。絶対に迎合しない。敵の怒りも上昇してくる。「おとなしくしていろ」。夜中電話が鳴る。

四回目の市議選が近づいた日、怪文書がまかれた。聞いたことも無き女性のことが書かれていた。浅野目は思った。「虫ケラのように人を殺すとはこのことか」。一時間寝込んだ。妻智子が起こしにきた。「あなたは立ち直るのは早いでしょ」。浅野目は奮い立った。

翌日、予備校の授業で、浅野目はボクサー、モハメドアリの話をしていた。「ローマオリンピックに出場、十八歳で優勝。パレードがあった。アリはうれしかった。祝賀会が終わってレストランに行った。主人に『黒んぼ帰れ。』といわれる。金メダルを見せたが『来るな。』と返される。バイクで走りオハイオ川に出る。赤く巨大なロジャーズ橋の上に一人立ち、泣きながらアリは金メダルを川に投げた。有名なアリ伝説だ」。満席の教室で続けた。「逆境に負けるな。IOCは三十年経ってメダルを再交付した。愚かな力に絶対に負けるな」。

最期の市議選となったこの選挙は、五割も増票し再選を果たした。

市長選に立つ決意。団地の棟の間、住宅地の辻で、夕刻寒風が吹き始めても、ハンドマイクから浅野目は訴えていた。辛くないかと尋ねると「家々のカーテンの色が小さい頃祖母の背から見た雪の中の家の光に見えてくる。私は各々の家の物語に政治に改革を訴えている」。「人々の小さな幸せのために働きたい」決然と将来を決めた瞳輝き、頬青き少年のころの意志強気顔がそこにあった