見て見ぬふりをする、意図的な沈黙をする。 正義の退嬰(たいえい)化を憂える
生まれたのは昭和33年。テレビ100万台突破の年、しかし普及率10.4%。 厚生省の「栄養白書」によると4人に1人が栄養不足。けれどもわが国社会全体に信じられない勢いがあった頃。
27日に、62歳になった。「誕生日を迎えるに当たり、どんな61歳でしたか」と問われた。
お相手に話したことをここに記してみたい。
私は考えることが好きだ。飯を食っている時も、歩いている時も、笑っている時も考えている。考えている時さえも別なことを考えている。
そんな私が人生の終盤にやって来て考えた結論は、人は正義、勇気、慈愛を貫こうとする姿勢を絶対に棄ててはいけないということだ。
一方、漫然と生きることを拒みたいと、いつも思っている。けれど、また一年同じ様なことをしてしまったかもしれない。
小学校の時、虐めてるヤツに「やめろ」と言っても同調者はいなかった。
大学生の時、痴漢に「やめろ」と言っても同調者はいなかった。
関わりたくない、苦しい決断をしたくない、傍観者でいたい。なかなか変わらない社会の縮図を見る思い。この一年もイヤというほど何度も味わってきた。
企業の不正、労働者の不利益、事故のリスク、過重労働、児童虐待、差別もみんな見て見ぬふりが、意図的な沈黙が、事態を深刻化させる。
ならば仕方ない、別な力にすがるしかない。どんなことをしても正義を貫こうとする。すると関わりたくなかった人が、びっくり箱のように急に陰口を叩き始める。
抑圧の力は、そうだ!そうだ!と付和雷同に加担する人の登場で、より強固な流れになってしまう場合は実によくあることだ。
そんな時、自分の頭で考え判断する人間の登場が待たれる。しかしながら、私がいた組織や団体の多くでは、そんな人物の登場は奇跡だ。
関わりたくない、考えない、信じているんだから大丈夫。問題は解決せず長期化する。
こっそり波風立てるあいつこそ悪いと結論が出る。正義の旗は排撃の対象になる。
稀有だが、自分の頭で考えて判断を下す堂々たる人物が登場した時、私は本当に嬉しい。
誰かに言われ、一緒にそうだ!そうだ!とは思わない。自分の頭で事象を見つめる。
このことは何より、当該の組織を守り、当該人を守り、社会正義さえ実現する。私はそう信じている。
正義が退嬰(たいえい)化する仕組みを嘆くことがある一年だった。そして意図的な沈黙はどうにかならないかと、考える一年だった。
私に、「誕生日を迎えるに当たり、どんな61歳でしたか」と問われた方は84歳。私の人生の殆どを知っている方だ。
「勝つか負けるかではなくて、勝つか死ぬかで生きてきた、貴方らしい」と笑ってらした。
「正義を貫くことは大切」と話された。
私と同じ考えと、一緒に笑った。