新井さんが当時の埼玉盲学校から現在の長瀞中学校に異動出来たのは浅野目県議のお力によるものであり、新井さん本人は元より私共教育ネットの恩人である。
約10年間県の教育委員会と交渉を重ねて来たが、何の成果も得られずやむなく議事堂会館を訪ね、たまたま出会った木村県議の橋渡しで浅野目県議に出会いそれまで何の接触もなかった浅野目県議の心を動かしそのお力に寄って異動が実現した事は、感謝、感謝で有りいくら感謝してもしきれるものではありません。その浅野目先生が今度は教育ネットに入会する旨の連絡が入り思いもしなかったことだけに、驚きと喜びが交錯した感激でいっぱいです。これまでに毎回会報をお送りしていたので余りにも惨めな金額の予算書や決算書を目にし、せめて切手代にでもしてほしいとの先生の心配りかもしれません。お人柄が忍ばれます。それにしても、新井さん本人はこれまで世間に対して異動出来たのは浅野目先生のお力である事をまったく公表しておりません。新聞、テレビ、ラジオでは自分の意思を必ずしもそこで伝える事は出来にくいとは思いますが例の著書「全盲先生泣いて笑っていっぱい生きる」ではその序文に「すべてを明らかにする」と書いてあるにも関わらず、その異動に付いての肝心の部分である浅野目先生のお力添えがあった事はまったく書かれておりません。むしろ、ここまでしないと視覚に障がいを持った教師が普通の中学校に異動が、出来ない事を世の中に訴えるべきではなかろうか、せめて「某議員のお力添えに寄って、、、、、。」などと言った抽象的な表現でも良いのでなぜ意識的に書かなかったのか、今でも理解が出来ないのは私だけではないはずです。私は27歳で家業から教員に転職しましたが公立学校は、当時27歳までが受験資格で有り、すでに結婚し1歳の娘もいるので私立高校の教員になりました。「網膜色素変成症」という難病ですので徐々に視野が狭くなり視力も低下し夜盲もかなり強くなってきましたが45歳で担当を外れ50歳頃からは、教科書の文字が見えなくなり拡大写本を使って授業をしたり、55歳頃からは職員室の自分の机の上に拡大読書機を置き、なんとか事務処理を最低限こなしながら62歳まで教壇に立ち続ける事が出来ました。私学では視覚障がい者が教師として定年まで働き続けるのは非常に困難です。理事会から色々な嫌がらせや、一部の同僚からの冷たい目も有りました。しかし、私が定年まで働き続けられたのは、何人もの協力者や支えてくれた恩人がいたからです。私はその人たちに今でも心から感謝しています。浅野目先生の入会に対して先生と初めて出会い「もしかして、もしかするかもしれない」と皆が思い感動と流した涙を、もう一度思い起こそう。注目を浴びた新井さんが今日あるのは、あの時がスタートである事を忘れてはならない。早速私は入会のお礼を浅野目先生に電話した。お互いに色々な事を話したが、先生は私たちが足掛け10年も教育委員会と交渉し、その交渉が徒労に終わりやむを得ず先生を訪ねた事が例の著書に書かれていないことをご存知だった。そして先生は「私は、大好きな言葉があるんですよ。」と言いそれは「毎日、毎日が拍手のないドラマである。」とおっしゃった言葉が私の胸に深く突き刺さった。皆さんはこの言葉をどの様に受け止めたでしょうか?