誰もが平和だと思える未来を、広島に生きる私たちがつくっていきます

1944年12月から、ユタ州の砂漠基地などで、軍事訓練を繰り返していた、米国第509混成群団。

翌年8月6日午前1:45(日本時間)、同団所属の原爆搭載機B29エノラ・ゲイは、 爆発観測と記録撮影のための随伴機2機とテニアン島を離陸、日本へ侵入した。

広島市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点。投下から43秒で、原爆は地上600mで炸裂した。核分裂が連続して起こり、小型の太陽のような灼熱の火球が形成。中心温度は100万℃を超え、1秒後には直径400m超えの火球となり、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000℃にも達した。

瞬間、強烈な熱線と放射線が放出され、周囲の空気が圧倒的な力で膨張し、衝撃波が発生。強烈な爆風が広島を圧した。

1945年8月6日午前8:20。エノラ・ゲイから、第509混成群団司令部へ打電された。
「雲量1/10の雲を通して、1機が広島を目視爆撃した。結果良好。投下時刻は052315Z。対空砲火も敵機の抵抗もなし。以上」
打電記録を読むと、広島市は無抵抗、丸腰であったことが分かる。人類史上初の都市に対する核攻撃は、なすがまま行われたのだ。

広島市で、放射線による急性障害が収まったとされる、同年12月末までに、無惨にも人口35万人のうち約14万もの人が亡くなられたと推計される。
爆心地から500m以内では被爆者98~99%が死亡、500m~1㎞以内では約90%が死亡した。
その中でも子供の被害が痛ましい。広島市の調査では、0~9歳の7万3622人が被爆。45年末までに7907人が死亡した。10~19歳の死亡も1万5543人にのぼる。

大量破壊、大量殺戮が瞬時に、かつ無差別に引き起こされ、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめている。

今日の広島平和記念式典では、この1年に亡くなった人や死亡が確認された人、合わせて5320人の名前が書き加えられ、33万9227人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められた。

同式典には、過去最多111カ国と欧州連合(EU)の駐日大使らが出席したという。

小さな幸せだけを望む民を残酷に殺す兵器を地上から消し去らなければならない。力を合わせ、核兵器のない世界を実現させなければならない。

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