④こつこつ謙虚な努力 上杉鷹山
文:埼玉県議会議員 浅野目義英
上杉鷹山(ようざん)は米沢藩藩主です。屈指の名君として知られています。
1751年に、日向高鍋藩主、秋月種美(たねみ)の次男として生まれました。10歳で米沢藩主の養子となりました。祖母豊姫が米沢藩出身で「我が孫ながらなかなかに賢い」と、婿養子として縁組を勧めたのがきっかけでした。
第35代米国大統領ケネディは、就任式で日本人記者に「日本で一番尊敬する人物は」と質問され、すぐに「鷹山です」と語りました。
世界にとっても屈指のリーダーであり、数多くの努力を積み重ね米沢を救った彼のことを、270年たった今でも米沢の人々は崇敬の念強く呼び捨てにはせず「鷹山公(こう)」とよんでいます。
上杉藩は、1700年代中頃には借財が20万両(約150億~200億円)に累積する一方、石高が15万石なのに、会津120万石時代の家臣6千人を召し放ち(=リストラ)せず、また家臣も上杉家へ仕えることを名誉とし離れず、他藩とは比較にならないほど家臣の割合が高かったのです。そのため、人件費が藩財政に深刻な負担を与えていました。加えて農村の疲弊や、洪水による被害などが藩財政を厳しく直撃していました。これだけの悪条件が重なった藩は他にありませんでした。
上杉という名門家の誇りを重んじ、豪奢な生活を改められなかった前藩主重定は、藩を返上して領民救済は江戸幕府に委ねようと本気で考えたほどでした。
上杉家の養子になることが決まった鷹山に、民と藩を守るために、確かな学問を身につけさせようと、米沢藩では良い教師を探しました。そうして出会ったのが, 儒学者細井平洲(ほそいへいしゅう)でした。鷹山は14歳から平洲の教育を受け,学問を通じて社会のことや生き方を学びました。
鷹山が初めて米沢に入ったのは19歳の時です。前藩主上杉重定は,米沢城大手門前広場の前の橋を,新しい石橋に架け替えて歓迎しました。行列を従え馬に乗ってやってきた鷹山は,その橋が新しいことに気づき、馬を下り石橋の手前で一礼をし,徒歩で橋を渡りました。これは当時の常識では考えられないことでした。新藩主の出迎えに出ていた人々は,この鷹山の人柄に驚き感激しました。
平洲の教えを守り、自分は、上からではなく民のために謙虚に下から尽くす。とした決意表明のデビューでした。
先に述べたように、鷹山が藩主となった時、米沢藩はばく大な借金を抱え、民衆も苦しんでいました。鷹山はこれらを乗り越えるために、自分から模範を示して努力を重ね、節約に努めなければならない。新たな産業をおこし、財政の立て直しに全力で取り組まなければならない。そう真剣に考えました。
着任早々、大倹約令を発令します。重役の一部からは、米沢藩の対面(メンツ)に関わると強い反対を受けましたが、鷹山は率先して節約を実行しました。江戸藩邸での藩主の生活費を約7分の2とし、食事は一汁一菜、普段着は木綿としたのです。質素倹約を訴え藩主が率先してこつこつ努力をする。これも当時の常識では考えられないことでした。
「漆(うるし)・桑(くわ)・楮(こうぞ)百万本植立計画」を立てた農業開発、養蚕・織物・陶磁器・和紙などの産業を盛んにした殖産興業、
「学問は国を治めるための根本」であるとの強い考えを持って藩校の創設、鷹山は、自ら先頭に立ち、努力、努力、努力の改革を進めました。
特に農業開発に対する彼の姿勢に胸打たれ、家臣は刀を鍬に持ち替え、荒地開発や堤防修築などを次々に実施しました。
大変興味深いお話を一つしましょう。245年前の1778年、ヒデヨという老婆が娘に宛てて書いた手紙が残っています。
「ある日、稲束の取り入れ作業中に手が足りず困っていたが、通りかかった武士が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として餅を配るのが慣例である。餅を持ってお礼に伺いたいと武士に言ったところ、米沢城北門の門番に話を通しておくからと言うのである。お礼の餅を持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主・鷹山であった。お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた。」※要約。
鷹山自身が、上からではなく謙虚に人々の輪の中に入って一緒に汗した記録が残っているのです。
鷹山の改革の成果が徐々に表われ、藩財政は少しずつ好転していき、つい
に破綻寸前の藩財政は、藩あげての努力の積み重ねで立ち直り、次々代藩主の時代に借金は完済されました。米沢藩は救われたのです。
読売新聞が日本の自治体首長に行った「理想のリーダー」アンケートで、上杉鷹山が1位に挙げられています。
有名な「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」
(人が何かをなし遂げようという意志をもって行動すれば、何事も達成に向かう。 ただ待っていて、何も行動を起こさなければ、よい結果には結びつかない)
は鷹山が残した言葉です。