昭和四十七年。八月二十六日。この日は、だれもが知っている通り、第二十回目のミュンヘンオリンピックの開会式のあった日でした。僕は、あの日、つくづく日本人としての誇りというものを感じました。
思い出してみて下さい。入場行進の時の事を。口をしっかりと結び、足並みもきちっとそろえて、堂々行進をした日本人の行進。しかし、その規律さの中にも、声援の拍手に笑顔で、対応した日本人の行進。あまりにも立派だったではありませんか。
また、それとは対照的にガムをかみ、他人と話しながら、足並みばかりか列まで、めちゃくちゃだった、西欧やアメリカ人の行進をみて、大きな誇りを持ったのはおそらく、僕一人ではなかったでしょう。
その時の感動は、さらに、入場行進の事が報道されている新聞を見て、高められました。
特に第一面などには、“日本人堂々入場行進”という大きな見出しで記事が載っていました。しかし、悲しい事に片すみの社説を読んだとたん、入場行進の立派さも、日本人としての誇りも、一挙に脱落したのでした。
その社説には、こういう事が書いてあったのです。みなさんも知っている通り、各国選手団は、入場行進を終えると、きちんとフィールドの上に立っていなければなりません。しかし、その時日本人選手五人ないし十人はその立っていなければならないフィールドの上に、大の字になって寝そべっていた。という事でした。
僕は、もち論の事、あの入場行進を見て、日本人としての誇りを持った人々には、強いショックだったにちがいありません。
立派な入場行進をした日本人と、立っていなければならない所に、大の字になって寝そべっていた日本人。あまりにも対照的ではありませんか。そして、この二つの異なった行動をした日本人は、同一者なのです。
二つの顔を持つ日本人。
昔から、ある言葉で、影日向というやつです。確かに、我々日本人には、時たま誇りというものを忘れて、他の人には良く見られたいという気持ちが、あるように思えます。かえって、その良く見られたいという一心で成り立って行く人も、中にはいるかも知れません。
しかし、自分の本当の姿を見られた時には、相手からの信用はゼロになってしまいます。では、日本人の本当の姿は、どちらなのでしょうか。
もしも、ある外国人に「オリンピックでの、日本選手団の行進は、外国人によく見られようと思って行ったことなので、本当の日本人の姿は、フィールドの上に寝そべった姿なのですか?」と聞かれた場合、まちがっても、「寝そべっていたのは、十人くらいでしょ、立派に行進したのが、日本人の本当の姿ですよ。」などと言ってはいけないと思います。
やはり、その通りであるのかも知れませんが、一応、犯した行動は、責任をとるというのが正当だと思われるのです。
つまり、この場合は、十人の問題ではすまされなくなっており、一本のネジがなければ動かない機械のように、一人の日本人の行動も、日本国民の行動とされてしまうのです。
ですから、日本人として、誇りのもてるもう一人の自分ではない、真の行動をしたいものです。
満員電車の中で、老人や幼児に席を譲る事も自分の誇り。道路に落ちている紙クズ一片拾う事さえ市民としての立派な誇りなのです。一人の誇りが、市のものとなり、県のものとなり、そして国のものとなり、行く果ては、世界の誇りとなります。
他人に良く見られたいなどと考えない良識が、生まれた時に、それが完成するでしょう。そして世界の人々が、誇りを持った時こそ、国々の争いなどなくなってしまうとさえ思います。その基礎のため、皆さん、明日からは、一人一人、誇りを持ちましょう。