二一世紀への懸け橋として 浅野目 義英(上尾市議会議員)

何も無かったけれど当選できた。二一世紀をつくる世代たちにも発言させて欲しかった

昭和三三年、私の生まれた年は、東京タワー完成、テレビ百万台突破の年。原辰徳、山口百恵らが同じ年だ。この国が、ひたすらに高度産業化社会の道を驀進しているその只中で、大きくなってきたと言えるだろう。街では「走れコータロー」が流れ、テレビでは宇宙に飛び出すロケットが映し出されていた。社会のスピードがとても急で、大人たちはそこにいかにうまく乗れるのかがキーだと言い続けていた。愛や正義は馬鹿らしくて、金と権力があれば何でもできることを思い知らされることの多い世代であった。
私が五年前、市議会の選挙にトライしようとした時、大人たちは少しの人を除いて反対した。市民が諦めてしまっている政治の世界を改革したいという意欲は、尻も青いくせにと一蹴されてしまうことが多かった。こんなことだから若い人は、政治の世界は小賢しいと決めつけ見向きもしないのだと思えてならなく、私の意思は固くなるばかりだった。私が選挙に出た訳は、議員が私のやりたい仕事であったことは勿論だが、大人たちがつくった地方議会に対する既成の常識や感覚に、若い力で風穴をあけたいと思ったことにもあった。若いスタッフは誰も反対することなく、私を信じてくれて、文化祭のように明るく楽しくかつ積極果敢に選挙にチャレンジしてくれた。そして、年齢と同じ二五位で当選することが出来た。本当に夢のようだった。当日、沸き上がる歓声を聞き、握手攻めに合いながら私は感動で胸が張り裂けそうだった。あるご老人に痛い位に私の手を握り締めて「君の体はもう一人のものではなく、君を心の中で応援してくれた全ての人たちのものになったんだよ」と言って頂いた瞬間から、私の議員活動がスタートした。

立場や主義にこだわり続けている議員に興味はない。地方議会復権のため果敢な努力必要

五年前、県内唯一の二〇代の市議を誕生させて頂いた。それは、市民の方々の実験であったように今でも思える。ああ若僧はやっぱりだめだったとそれだけは言われまいと努力をしてきたつもりだ。なぜなら私がもしダメという烙印を押されたのなら、もうこの地方議会において、若い人は後に続いてくれないという強い思いも一つにはあったからだ。
低調・弱体ではないが、機能を果たしているのかといった批判の集中している地方議会を、青年らしい発想と青年の行動で改革できるのかどうかということは、私の胸を高鳴らせたし、市民にとっても関心のあることだったに違いない。
議会は、行政側に緊張感を与え、独善性や独走を防止するといった所にその存在意義をもつということは、義務教育を終える頃の子供たちならどんな子でも知っているはずだ。議会は勉強を繰り返し、行政側と対等に渡りあえるだけの実力を持って、議会審議をもっと実りあるものにしなければならないという基本的な使命があることは言うまでもないだろう。なのに、そういった熱意を失って根回し主体のまあまあ的立場でいる議員や、国政レベルの問題を持ち込み、爽やかでない議論に必死に汗している議員の存在は、はっきり言って地方議会を市民中心ではなく、自分エゴ・政党エゴの披露の場にしてしまっているという悲劇的な現実がある。
こういった議員に私は信頼や興味を全く持ち得ない。地方議会復権のために敢然と前進することが急務である。

二〇世紀と二一世紀をつなぐ青年の一人として、新しい議会改革のため責任を果したい

地方自治を言いながら、地方にはわずかの例を除いて立法権も司法権もなく、民主主義の仕掛けとしての三権分立が必ずしも明確ではない状況だが、余りにひどいことにならないという現状甘受型の立場が、ある意味では地方議会を低調・弱体にさせているのではなかろうか。提燈質問・抽象的質問が行き交う等、現状はかなり厳しいものがある。地方議会のチェックを無いがしろにしてセレモニー主義に陥ってしまうことは、その機能を本当に理解しきれていない訳なのであって、極めて不健全と言わざるを得ない。
既成のものにとらわれないやる気と、何ものにも左右されない若い感覚で、改革意識に燃える議員誕生が望まれることこの上ない。あいまいさを捨て切れず、旧態依然とした姿勢のままで地方議会がい続けるのならば、市民に着実にそっぽを向かれていくことだろう。
地方議会人として青年として、この改革をそう遠くない二十一世紀の前に、済ましておかなくてはならないと私は思う。

上尾市議会
新生クラブ 一五名
社会市民クラブ 四名
民主クラブ 四名
共産党 六名
公明党 五名
無会派 二名
計 三六名