【あきらめず、心折れず、努力した人の話】
今回からみなさんに、表題のテーマで、5回連続でお話をさせて頂きたいと思っています。
どうぞお付き合い下さい。
➀絶望からの努力、野口英世
私の知人のお嬢様で名前が喜都さんという方がいます。
私は思わず「キトという首都の国は?」と尋ねましたら「エクアドルです」と笑顔で答えてくれました。
野口英世がエクアドルを黄熱病撲滅のため訪れて今年で104年となります。同国では今でも、野口へ対する深い崇敬の念が残されています。野口の生誕 100 周年の1976 年には、キト市とグアヤキル市に胸像が置かれ、盛大な記念式典が行われました。野口英世小学校があり、授業の中で彼を学び、記念切手も発行されるなど、熱狂的に支持されています。
エクアドルだけではありません。
日本を含めた6か国から勲章授与されたなど、最も偉大な人物として世界中で称賛され、現在でも愛され続けています。
研究スタイルは、驚嘆するものでした。膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえます。何百もの試験管を用いて数千のスライドを作るといった、ため息が出るような実験パターンを無限に繰り返してデータを収集しました。この目を見張る研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では野口を「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと驚嘆の声を受けました。何とニックネームは human dynamo(人間発電機)です。
彼はどうしてこんなに挫けなかったのでしょうか。福島の貧しい農家に生まれ、幼い時に左手に大火傷を負ったのは有名です。
おにぎりしか食べられず、医学を志望したもののその手のために打診が困難という不安もありました。
1913年、梅毒診断法の発見、トレポネーマ・パリドゥム(梅毒スピロヘータ)の純粋培養、 これの脳脊髄内発見、小児麻痺病原体の発見、狂犬病病原体の発見と、次々と大偉業を発表し続けた野口は、この年最大のスターでした。当時世界の医学をリードしていたドイツに招かれ、51日間の滞欧中に10都市訪問、11回の講演、38回の晩餐会に主賓として招待、スウェーデン、オーストリアでは皇族の接見まで受けました。
2年後の1915年に帰国。国民的英雄として熱狂的歓迎を受けました。15年ぶりに愛しい母にも会えました。
しかし、大学からの招待は一つもありませんでした。高等小学校を卒業後、私塾済生学舎で六ヶ月医学を勉強し。これが野口の学歴のすべてだったのです。
日本の医学界は彼を認めず、彼は傷心のまま太平洋を米国へ渡ったと言われます。以後、彼は日本に帰国していないのです。
1918年、先にお話ししたエクアドルへ黄熱病の研究のために渡ります。
到着するとすぐに研究にとりかかり、研究スタイルも前述した通りです。 病原体を見つけ、その病原体からワクチンを精製し、多くの人命を救いました。エクアドルでは大変な賞賛を受け、このワクチンは中南米各国で大きな成果を上げました。
野口には、2つの絶望がありました。左手の不自由と日本の無理解です。
前者の絶望から、ほぼ独学のみで医学に邁進します。そして打診をしなくていい細菌の研究に打ち込み、世界最高の細菌学者になるのです。
後者の絶望から、日本を相手にせず病に悩む世界の国々のために次々と渡航し研究を続けます。3回にもわたるノーベル賞候補はその証左です。
絶望しても挫けず大変な努力を傾ける、何が一番大切なのかをよく理解しわきめもふらず前進する。
そのことを野口英世は教えてくれます。
アフリカのゴールドコーストで亡くなった彼の墓には「野口英世博士は科学への献身により、人類のために生き、人類のために死せり」と記されています。