【あきらめず、心折れず、努力した人の話】

③夢を追う勇気 ウォルト・ディズニー

文:埼玉県議会議員 浅野目義英

世界中で愛されるキャラクター、「ミッキーマウス」の生みの親。また、子どもも大人も楽しめる夢のテーマパーク「ディズニーランド」の建設を実現させた人。
ウォルト・ディズニー。

今回は、多くの人々を笑顔にし明るくした彼の生き方をお伝えします。
彼の人生は明るさいっぱいと思われがちですが、実は彼の人生は波乱に満ちたものでした。何度倒れても立ち上がり、必死の努力を続けているのです。

ウォルト・ディズニーは、1901年に米国シカゴで生まれました。彼の父親は様々な仕事に手を出しては失敗の連続で、家庭は貧乏でした。また父親は暴力を振るうので、彼は少年時代に、本当の父親ではないのではないかと不安になっていたようです。
絵が上手く、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っているほどでした。
そんな彼は高校生になると、夜には美術専門学校に通って絵を学ぶようになり、漫画家の道を目指すこととなります。
卒業後、新聞広告の漫画掲載を目標にしていましたが、彼にほとんど仕事は回ってきませんでした。
それを見かねた兄のロイが、広告デザインの仕事を紹介しました。これは彼にとって重大な転機となりました。
彼はここで、生涯の友人となる、アブ・アイワークスと出会ったのです。二人とも失業した時、一緒に起業することを決断します。この時立ち上げた会社は長続きしませんでした。
しかし、夢を追う勇気を話し合いました。次第に漫画からアニメへと二人の頭は一杯になっていきます。
そして1920年わずか19歳の時、ついに個人事務所を持ち独立します。彼の製作したアニメは評判が良く、一人では仕事が追いつかくなっていきました。彼は、親友アブ・アイワークスを初めとするアニメーターを集めて、大規模なアニメ制作会社を立ち上げます。
彼の仕事は波に乗りましたが、制作に没頭するあまり、会社の経営には無関心でした。その結果、なんとこの会社も倒産してしまいました。絵の上手な青年は何をやってもうまくいかず、絶望の毎日でした。

1923年、22歳となった彼は、再起を図り、兄のロイとともに「ディズニー・カンパニー」を立ち上げ、努力の末、ウサギのキャラクター・オズワルドを製作します。
このオズワルドは大ヒットし抜群の人気者となります。
しかしまた悲劇が起きてしまいます。
彼の会社が製作した作品の版権は配給会社のものと言われ、彼の作品はすべて奪われてしまったのでした。
さらに、このトラブルを引き金に、働いていた優秀なアニメーターたちが次々と引き抜かれていきます。引き抜きを断ったのはアブ・アイワークスとその助手の2人のスタッフだけでした。倒産寸前の事態。彼はもう立ち直れない、彼はもうダメだ、と多くの人が話しました。

みんなを笑顔にするという、夢を諦めきれない彼は、夢を追う勇気は持っていました。オズワルドに代わるキャラクターを考え抜きます。
当時、彼が飼いならしていたねずみを着想にして、ミッキーマウスが誕生しました。
オズワルドが奪われてしまっても、もっと愛されるもの、もっと笑顔になるものをつくりたいと彼は思いました。何とかしなければならない。彼の執念と努力が、ミッキーマウスを誕生させたのでした。
1928年に、白黒のアニメーション作品「蒸気船ウィリー」で初登場したミッキーマウスは、永遠の恋人ミニーマウスと共に、95年経った今も変わらずに世界中の人々から愛され続けています。
1932年に入ると、世界初のフルカラーアニメ『花と木』がアカデミー賞を受賞。さらに、1937年には世界初の長編アニメ『白雪姫』が公開。当時はフルカラー長編アニメは無理と言われていた時代に大成功をおさめた彼は、世界にその名を残すアニメーターとなったのです。
会社が倒産し、仲間がみんなが去り、部屋が空っぽになっても、彼が夢を見失わずに、世界を魅了し続ける仕事に挑戦することができたのはなぜでしょうか。彼は夢を持っていたから、ひたすらその夢を追う努力し、何度も困難を乗り切ってきたのです。
彼は、たくさんの名言を残しています。その中でも飛び抜けて素晴らしいもを、みなさんに送りましょう。

夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる。いつだって忘れないでほしい。すべてたった一匹のねずみから始まったということを」・・・・ウォルト・ディズニー