新井淑則先生(2023年7月5日にご逝去)の追悼文集『新井淑則さんの逝去を悼む』(発行者: ノーマライゼーション教育ネットワーク)において、あさのめ / 浅野目義英(日本維新の会 衆議院埼玉県第1選挙区支部長)が登場し、埼玉県議会議員時代の取り組みに関するエピソードが紹介されています。

(※登場箇所は、文字を黄色でマークしています。)

新井淑則 I my me?

岩井 隆

寄席の出し物で色ものというのがある。おっと、ご同輩、勘違いをされては困る。この名から、 艶っぽいちょっとHな出し物を思い浮かべる向きもあるだろう。が、そうではない。落語・講談以外の演芸を色ものと呼んでいて、特段Hな芸ではない(もちろんHな芸もある)。落語通には釈迦に説法だが、落語ばかりが続くと疲れや飽きがくるので目先の変わった演芸をその間に出そうという趣向である。料理でいう箸休めというところだ。奇術・物まね・曲独楽・紙切り・三味線の俗曲など多彩で華やかである。まあ、無邪気に面白い。

新井淑則さんが亡くなって、追悼文集の話が持ち上がった。決して非難する訳ではないのだが、どこか似通った文章が載ることが多い。1人くらい毛色の異なった文章があっても良いだろう。そんな訳で追悼文の中の色ものという立ち位置だ。

それにしても、タイトルが奇妙だ。タイトルに英単語が並ぶのに、本文中には1回しか出てこないのだ。英単語はその音だけを借用されて英語の意味は考えない。音を表記すると、アイマイミー。日本語の「あいまい(暖昧)」に「み××××」がつながっている。(またまたご同輩、伏字に官能小説を連想してますな)簡単に言えば、駄酒落。これこそが暖昧で訳が分からない。どうせ浮世は出たとこ勝負。そんなお話の4つの高座、おトボケでフザケ半分で箸休めであっても、読了後にしっとり感や諧謔味が残るなら、それこそ嬉しい。

おっとと、前口上が長すぎた。幕がするすると上がっていく、さあ、始まり、始まりィ~

開口一番 あい まい ミックスフライ

ミックスフライというメニューは、ファミレスや大衆食堂で時折見かける。何種かのフライに刻みキャベツなどを添えて皿に盛った料理である。(寄席の話から、いきなり食事の話かよ)同じミックスフライを名のっていても、素材は店によって随分と違う。私の好みは海老フライ・コロッケ・串カツの3種である。実はこの3つの組み合わせはなかなか見つからない。中でも串カツが曲者でなかなか姿を現さない。メンチ・ヒレカツ・チキンカツなどはよくあるのにだ。だから私は海老フライ・コロッケ・串カツをミックスフライの黄金トリオと呼んでいる。欲を言えば、これに肉厚のアジフライが加われば最高だ。もう、何者も寄せ付けない無敵のカルテットになる。キャベツにはドレッシングをかけてはいけない。(「孤独のグルメ」の見過ぎだよ)

ここでいきなり、謎かけを1つ。新井さんの生前の業績とかけて、ミックスフライと解く。その心は、あげられた1つ1つが味わい深い。

新井さんが生前視覚障害者として、教師として、1人の人間として取り組んできた事や業績を挙げてみよう。

◆視覚障害教師のトップランナー。周りからそのように見られ、自身もあえて広告塔になろ
うとしていた、と思う。特筆すべきは毎年の授業公開、これについては後述。

◆子ども(生徒・卒業生)との関わり。熱いものがある。逆に言えば、この思いがなければ視覚障害教師は続けられなかった、と思う。

◆教育ネットの代表。盲導犬と共に人前に立つ姿には存在感があったなぁ。

◆講演を請われれば、都合がつく限り出かけていた。北は福島、南は鹿児島に行っていた。

◆著作の刊行。「全盲先生 泣いて笑っていっぱい生きる」(2009年 マガジンハウス)・「光を失って心が見えた」(2015年 金の星社)・「わたしの宮沢賢治」(2020年 ソレイユ出版)

◆メディアへの登場。テレビのドキュメント番組・ラジオでのインタビュー・新聞の報道記事など数多い。

◆ドラマのモデル。NHK・日本テレビで半生がドラマ化され、放映された。

◆道徳教科書の教材になる。道徳の教科化に伴い教科書(学研)で教材として描かれる。

◆平家琵琶を習い、演奏する。冗談混じりで令和の琵琶法師と名のっていた。

◆リルの家構想。地域のコミュニティー作りを目指していた。

どうです、やっぱりミックスフライでしょう。決してミックスジュースのように素材が溶け込んで、総体として1つの味になってる訳ではない。1つ1つがそれぞれに自分の味を出していて、それらがお互いを引き立てている。これって共生社会と似ていません?(最後に上手くコジツケましたな)

第二席 あい まい ミステリー

わて、こないな先生、見たことおまへん。中学校の国語の授業で平家琵琶を弾いてまんねんで。そりゃ、2年生の教科書に「平家物語」が載ってます。更にな演奏の時は、琵琶法師の姿を真似て、作務衣を着ていたそうや。琵琶を習得しようとした直接の契機は生徒に琵琶の演奏と歌を聞かせたいということらしいけどな。

目が見える人は稽古でも本番の演奏でも本を見ながら歌うんですけどな、視覚障害者は長い詩句を全部覚えて歌わめばならんし、その歌に合わせてあの大きな琵琶を抱えるように弾くんでっせ。それに稽古代などに金もかかるやろし。楽器の琵琶も高うおまっせ。

今でもな、目が見えん人、何かと苦労ですわ。中世・近世の盲人となると按摩になるか琵琶法師(女性は瞽女さん)になるしかなかったんでしょうな。修行もきつかったんとちゃいまっか。琵琶を背にして師匠についていき、市の立つ沿道で大道芸・門付芸として琵琶を弾き、なにがしかの喜捨を得て糊口をしのいでいたそうや。そんな琵琶法師の思いや行動を、新井先生は視覚障害者として自身が追体験しようというつもりだったんやろかな?

琵琶演奏は授業に留まらへんかったそうや。講演会に行ってもおまけ(?)として琵琶演奏をしたそうや。更にな、視覚障害で瞽女唄を演奏している広沢里枝子さんと一緒に平家琵琶の演奏会を地元の皆野町で会場を借りて開いてもいるんでっせ。 『みんなのみなの ノスタルジア』というたかな?何でん、そこまでやりますのやろか!

ひょっとすると、新井先生の中に、それを促し急き立てる別のもっと大きなものがあるような気がしてくるんですわ。よう、知らんけど。

第三席 あい まい 皆野町

さて、みなの衆、これから新井淑則なる人物の謎を解くのじゃ、まあ聞かんしゃい!新井さんが長瀞中・皆野中と12年間も授業公開を続けたのじゃが、何故だか知っとるかのう?「教育ネットの仲間が見守り学校の管理職や教育委員会に勝手なことをさせないための圧力」うん、その通りじゃ。初めはそうじゃったが、それだけかのう?それだけで12年も続けてきたのかのう?新井さんは「教育ネットのみなさん、私はこの秩父で教師として生きていく覚悟です。」との思いを告げ「その自分を支えてほしい。」という要請の意味を込めていたんじゃと、わしは思うとる。だから、参観者に宿や翌日の秩父観光を用意して歓迎した。

覚えておるかのう、十数年前のことじゃ。その年も授業を公開し、近くの宿に皆で泊まって楽しんだわい。わしも年取うてな、いつのことだかはっきりした年月日も、授業の内容も、誰が授業を見に来たかも、どこに泊まったかも、暖昧ではっきりしたことは言えん。じゃが、新井さんのお父さん・お母さんが健在だったので、十数年前と分かるんじゃ。泊まった翌朝、宿にお父さんがバイクで、秩父名産のシイタケを届けにきて、授業を見たひとりひとりにバックに入れたシイタケを手渡していたんじゃ、肉厚のみごとなシイタケじゃった。そのシイタケはお母さんの実家で栽培したもので、わざわざお母さんが取り寄せたそうじゃ。 「秩父の中学校に戻った淑則を、どうか皆さんで支えてください!」という親御さんの思いがシイタケに込められているように、わしには思えてならんのじゃ。

授業公開だけじゃない。琵琶の演奏会を皆野町で企画したのも、秩父に地質調査に来た宮沢賢治の歌碑巡りを企画し人を集めたのも、リルの家構想も、 「私は地元の秩父で生きていく」という新井さんの心情の発露だったと考えると、合点がいく。あっ、忘れておった。話の題が間違っているんじゃ。正しくは「愛 MY 皆野町」。済まないことをしてしもうたわ。

第四席(トリ) あい まい ミラクル

「禍福はあざなえる縄の如し」と言いますが、新井さんの人生を言い表しているようです。失明・病休・絶望に見舞われました。が、いつも誰かが救いの手を差し伸べてくれました。そしてミラクルもありました。

最初のミラクルは、三十代半ばで全盲となり、絶望の淵に追い込まれた新井さんが、3年後に秩父養護学校に視覚障害教師として復職したことです。次のミラクルはミラクルの極め付きです。四十代半ば、浅野目県議→上田知事→県教育長→大沢 長瀞町長の英断という有り得ないようなつながりで長瀞中学校の教壇に立ったのです。このどれか1つでもつながりを欠いたなら、新井さんは全く異なった人生を送ったかも知れません。3つ目は、新井さんが道徳の教材になったことです。 「いっぱい生きる 全盲の中学校教師」という単元名で学研の道徳教科書に載りました。現役の教師の生き方が、それも中学校で用いられる教科書に載ったのです。今、振り返ると、新井さんは生き急いでいたんだと思えてなりません。

そんな新井さんが教師を退職してわずか1年余で他界したのです。元気な(本当は病魔が徐々に冒していた?)新井さんに会ったのが2021年12月の忘年会。大好きなビールに酔い楽しそうに司会をしていました。その3ケ月後教師生活最後の3月31日夜にNHKの生番組に出演しました。一見元気そうでしたが、自力では立っていられない程衰弱していたと、後ほど耳にしました。そして、4月6日に埼玉医大病院に入院。そこからは入退院を繰り返していた新井さんとは、電話もメールもほとんどつながらなくなりました。

再会できたのは、1年後の2023年4月30日のお見舞いです。ベットに横たわり24時間介護になっていました。しかし、意識はしっかりして再開を喜んでいました。

人の世は、無情で不条理。最後はミラクル頼みです。私は、ミラクルよもう1度だけ起こってくれと祈りました。病が治るのは無理だとしても、少しでも命を伸ばしてくれ! と願いました。しかし、4つ目のミラクルは、ありませんでした。

2023年7月5日午後5時5分、静かに幕は降りていきました。享年61歳です。

※視覚障害の方ヘ パソコンのPCトーカーなどでお聞きになることと存じます。が、文中では、ひらがな・カタカナ・漢字を使い分けて表記しています。この違いを聞き分けるのは厳しいです。晴眼者に読んでもらうことをお勧めします。私自身が視覚障害者でありながら活字で読むことを前提にして作文してしまいました。申し訳ありません。あい my mistake.

新井淑則先生の軌跡

中村 雅也

追悼文というのは故人との思い出を綴るものかもしれない。流れた月日だけでいうと30年近くになるはずだが、いつ、どのように出会ったのかももう覚えていない。ただ新井先生と最後に話したときの記憶だけはまだ生々しい。私は障害教師のライフヒストリーを書く仕事をしている。新井先生にもお話しをうかがって、その教師生活を書き残すことに取り組んできた。2023年3月、執筆の過程でいくつか確認したい事項があり、私は久しぶりに新井先生に電話をかけた。電話ロに出た新井先生の発声は明らかにいつもと違っていた。私はそのときはじめて新井先生が闘病中であることを知った。体調が回復してから改めて話を聞くと伝えると、新井先生は回復するかどうかはわからないので手紙で回答するという。3月中旬に新井先生の生活史年表と確認したい事項を書き込んだUSBメモリーを郵送した。今から思うと、そんなことをすべきではなかったかもしれない。2023年3月27日の消印で丁寧な回答の手紙が届いた。音声パソコンで書かれたであろうその手紙は引き出しにしまってある。まだ思い出を振り返ることはできないが、新井先生の生きた軌跡のほんの断片をここに記してみたい。新井先生にはいくつかの著書があり、さまざまなメディアでも多く取り上げられている。だが、それらでは掬い上げられなかった事実もまだ残されている。新井淑則という開拓者をめぐる事実を丁寧に解き明かし、正確に書き残しておくことの意義は決して小さくないはずだ。以下、客観的記録として敬称は省略させていただく。

◆中学校への復帰

新井の教師生活をずっと支えてきたのがノーマライゼーション・教育ネットワークだった。同会は障害のある教師の支援団体として、月1回の定例会議、夏休み中の総会、会員通信の発行、教育委員会との話し合いといった活動を続けていた。新井の中学校への転勤も、会の中心課題として取り組んできたものだった。しかし、8年にも及ぶ県教委との交渉は煮詰まっていた。2007年8月の県教委交渉では、県教委の担当者は新井の中学校勤務の意義を認めつつも、全盲の教師を受け入れる中学校がないのだと頭を下げた。誠意をもって中学校への道を探ってくれていた担当者にそういわれて、交渉に来ていた教育ネットの面々にもあきらめの気持ちが広がった。だが、県教委交渉の帰り道、会員の丸山隆が今から議員会館に行って、県議会議員に訴えてみようといい出した。県教委交渉の後、アポイントメントもなしに議員会館に飛び込んで、文教委員の議員に取り次いでほしいと頼んだ。当日は文教委員の議員はいなかったが、民主党の議員が面会に応じ、同党文教委員の県議会議員・浅野目義英につないでくれた。同月、新井と宮城道雄をはじめとする教育ネットの有志が議員会館で浅野目と面談した。県教委とは8年も交渉してきたが一歩も進まない、盲学校へは往復5時間もかけて通勤している、何とか地元の中学校で勤務できないか。厳しい現状を浅野目に訴えた。

2007年10月2日、埼玉県議会9月定例会で浅野目は視覚障害者の教員登用について質問し、新井の現状を次のように訴えた。 「運命のいたずらで光を失った、現在盲学校で勤務しながら普通学校の勤務を望んでいる先生がいらっしゃいます。是非再び教壇に立ちたいとの希望を持っていらっしゃるこの望みを、夢をかなえていただけないか。通勤に片道2時間半、往復5時間かかる、そういうことは知らない。幾ら望んでも普通校では環境が整わないからだめだ、目が見えないから盲学校で働け、これでは私は納得できません。是非知事に答弁をお願いいたします」。教育長の答弁に先立って、県知事の上田清司が答弁に立ち、次のように述べた。 「現実に今伊奈総合学園でも大変すばらしい視聴覚障害の先生がおられまして*1)、私もビデオしか見ておりませんが、感激したぐらいの方であります。多分それぞれの市町村の教育委員会だとか、そういったところにお願いをすると、ややこしいことを受けないというそういう文化もゼロではないということで、非常に弱い部分があるかなと思いましたので、このお話がありましたので、早速もう秩父の創造センターの所長にどうだと、急いで調べてくれと言ったら見込みがあるようなのが出てまいりました。 (中略)これはできるだけ県並びに市町村の教育委員会、面倒くさがらずにより多くの人たちにチャンスが与えられるようなことを真剣に取り組んでいただきたい、このように思います」*2)。上田は浅野目より10歳年上だが、法政大学の先輩で、雄弁部を通じて大学時代に知り合い、30年来のつきあいがあった。県議会での質問の前に浅野目は上田に相談し、上田もすぐに動き始めた。

実は上田も新井という全盲教師の存在は知っていた。新井が盲学校に勤務し始めた頃、毎日通勤に使う皆野駅の駅員が公民館で30人ほどを集め、新井の講演会を開いてくれた。それを機に、少しずつ小学校や中学校などから講演の依頼が来るようになった。新井はどんなに小さい集会でも出かけて行って話をした。講演活動を続ける中で、新井のことが上田の耳にも入っていた。そんな折、浅野目から新井の希望を聞いた上田は、地元の中学校への転勤が実現するように、自ら先頭に立って教育委員会に働きかけたのだった。それに応じ、長瀞町長の大澤芳夫が長瀞町の中学校で新井を受け入れたいと名乗り出た。大澤は以前に長瀞町で開かれた新井の講演会に招待されており、夫婦で講演を聞いて感銘を受けていた。新井という全盲教師の存在は子どもたちにとってかけがえのないものになると思った。町長の意向を汲んで、長瀞町教育委員会も新井の受け入れを積極的に進めた。2008年3月、盲学校の校長から次年度の転任が伝えられた。赴任先は埼玉県秩父郡長瀞町立長瀞中学校。横瀬中学校を離れて15年、念願の通常の中学校への異動だった。うれしさと不安が交錯したが、 「見えないからこそできることがある、教えられることがある」、そう自分を奮い立たせて新天地での挑戦に胸を躍らせた。

◆メディア出演

念願の中学校復帰を果たした新井は、2009年3月に 『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』*3)と題する書籍を刊行した。これは網膜剥離の発症から再び中学校の教壇に戻るまでの経緯と、全盲教師として中学校に勤務した1年目の様子を描いた自叙伝だ。その過酷な体験と強いメッセージは大きな反響を呼んだ。さらに、2015年11月には若い世代に向けた図書として 『光を失って心が見えたー全盲先生のメッセージ』*4)も刊行した。そして、これらを原作としたテレビドラマが、2016年8月に日本テレビのチャリティー番組「24時問テレビ 愛は地球を救う」の中で放映された*5)。それに先立つ2015年4月には、長瀞中学校での学級担任の1年間を取材したドキュメンタリー番組が日本テレビで放映されている*6)。また、中学校では2019年度から「道徳」の授業が教科として実施されるようになったが、その教科書に新井の生き方を教材化した「いっばい生きる 全盲の中学校教師」*7)が収録された。2022年3月をもって新井は定年退職したが、2021年6月にはテレビ朝日で、2022年5月にはNHK教育テレビで、37年間の教師生活の最後を送る新井のドキュメンタリー番組が放映された*8)。目が見えなくてもできることがある、むしろ自分にしかできないことがあると信じて歩んだ教師生活だった。定年退職直後の2022年4月、新井は体調不良により検査入院し、肺がんとそれを原因とする希少難病が発見された。入退院を繰り返す闘病生活が1年余り続いたが、2023年7月5日逝去した。享年61。

【注】

*1)金洋直のこと。1979年5月21日、埼玉県蕨市生まれ。網膜色素変性症のため埼玉県立盲学校小学部に入学、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)中学部、高等部を経て、日本大学卒業、北海道大学大学院修了。埼玉県の教員採用試験を点字受験して合格、2005年4月、埼玉県立伊奈学園総合高等学校に数学科教諭として着任。2010年4月、埼玉県立白岡高等学校に転任。

*2)埼玉県議会平成19年9月定例会10月02日会議録(埼玉県議会会議録検索システム、2023年10月 1日 取得)。

*3)新井淑則 『全盲先生、泣いて笑っていっばい生きる』、マガジンハウス、2009年。同書、および全国視覚障害教師の会の取材協カにより、中途失明の中学校教師を主人公としたテレビドラマが制作され、2009年10月10日から5週にわたり、NHK総合テレビで「土曜ドラマ チャレンジド」として放映された。

*4)新井淑則『光を失って心が見えた一全盲先生のメッセージ』、金の星社、2015年。

*5) 2016年8月27日放映、 「24時間テレビ ドラマスペシャル『盲目のヨシノリ先生ー光を失って心が見えた』」。関連して同年8月20日、および11月5日放映の日本テレビ「世界一受けたい授業」にも出演している。

*6) 2015年4月13日放映、日本テレビ「NNNドキュメント 1年B組全盲先生一心で見つめた1
年間」。

*7)山中守成「いっぱい生きる 全盲の中学校教師」 『中学生の道徳 明日への扉 1年』、学研教育みらい、2019年、60-65頁。

*8) 2021年6月6日にテレビ朝日で「テレメンタリー 全盲先生と142の瞳」、2022年5月10日にNHK教育テレビで「ハートネットTVデクノボー魂一全盲の中学教師 最後の授業」が放映
された。

新井先生の軌跡

宮城 道雄

新井先生との出会いは、私が岩槻高校で視覚障害5級になり、教育ネットの活動を通じ3項目要望を実現した時でした。組合の支援の下、音声ワープロの導入。講師の配置実現。朗読ボランティアの導入が実現した時でした。組合本部から全盲の新井先生が紹介され熊谷の喫茶店で新井さんと会ったのが最初でした。絶望し落ち込んでいた新井先生が、母校の中学校に復職し、生き生きと授業を行い、担任までも勤め、生徒から慕われ信頼されている姿は強く心を動かされます。

復職にはかなりの困難がありましたが、本人の強い気持ちと努力で、秩父特別支援学校へ復職しました。

最初は1年間のカウンセリングの研修の時期もありました。また、中学校への復職の希望が強かったようで、視覚障害者の先生の授業見学で、兵庫県の英語の西川先生の授業見学に私と一緒に行ったことがありました。その他に静岡県の河合先生の社会の授業見学や小泉先生の国語の授業や原先生の盲学校の授業などを積極的に見学に行っていたので私は驚きました

異動に際し、中学校への希望を毎年出し続けていても、実現できませんでした。2004年から4年間川越の塙保己一学園に勤務しました。2007年に教育委員会との話し合いがうまく行かず、県議会に行って文教委員の議員にお願いすることが提案されました。県議会で浅野目県議に面会することができました。浅野目県議が上田県知事に話を伝えたところ、県知事が新井先生の前向きで意欲的な姿勢に打たれ、議会で取り上げました。中学校への復職を進めてくれました。新井さんの講演を聞いていた長瀞町長が新井先生の長瀞中学校への受け入れを認めてくれたのです。画期的なことでした。私たち教育ネットは、新井先生の長瀞中学校異動のお祝いを含め、何人かで長瀞を訪れ、桜の満開の4月、長瀞の町をみんなで桜見物をしたものでした。

新井先生の教育活動は、国語教師として国語の授業を行う。もちろんティームティーチングで二人で教えるのですが、中身の濃い、生徒を伸び伸びと活動させ育て実のあるものでした。また、担任も担い、クラス活動も充実させ、文化祭では新井先生自ら脚本を書いた演劇「裸の王様」を行ってクラスをまとめていたのです。子供の一人一人の特性や個性に配慮し大切にする姿勢が感じられました。毎年のように秋ごろ、公開授業を行ってきました。オツベルと象の授業では新井先生が判読で象の鳴き声をグララガオウと大きく響かせて生徒の心をとらえていました。平家物語の扇の的の授業では平家琵琶を自ら学び平家琵琶とともに平曲を奏でながら授業を展開していました。故事成語の授業では班ごとに寸劇を演じさせて故事成語の内容を把握させていました。長瀞中学でも皆野中学でも毎年公開授業を継続してきたことは実にすごい実績だというしかありません。

そんな授業見学の後には、新井先生の紹介で長瀞や皆野近くの民宿や元気プラザに一泊しました。教育ネットの私たちは宿泊して楽しく過ごすことができました。タ食には生ビールを2,3杯のむ新井先生はリラックスする時でした。私たちもおいしいものをゆっくり味わいながら楽しい時を過ごすことが出来ました。

宿泊の次の日に、長瀞の川下りでは新井先生を含め私たちは一緒に船に乗り込み急流を一気に下ったこともありました。私は高校生の時、長瀞の岩だたみに遠足に来て、地学の先生がこれが秩父古生層の圧力変成岩だと説明していた記憶がありました。また、ある時(2014年2月)には秩父地方が大雪に見舞われ、二晩ほど雪に閉ざされ帰れなくなったことがありました。そんな時、新井先生が、横浜まで行って琵琶の演奏を先生から学んでいるという話を聞かされました。平家物語を語る平曲のことも知らされました。また、2月ごろ長瀞近くに宿泊した時です。帰りがけに宝登山に上ることがありました。教え子の志塚さんが私たちを案内してくれたりして有難かった。ケーブルカーで上に上がり、更に少し山登りをすると、まだ少し雪が残っているところもあり、寒さも感じられるほどでした。しかし、すがすがしい空気の中で紅梅の香りと色づいた梅の花の沢山咲いている山の状況雰囲気は本当に気持ちよく楽しく感じられたものでした。新井先生はこのような秩父の自然の中で育ち、理解ある職場の同僚や、親しい友人に恵まれている人なのだと合点しました。

失明から職場復帰までを本にして何冊か出版しました。「全盲先生泣いて笑っていっぱい生きる」、「私の宮沢賢治(全盲の目にさす一条の光)」、「光を失って心が見えた」の3冊です。原稿書きの際、間違いのないようにいろいろな事項を字書や事典で正確に調べることが必要であったそんな話をしていた新井先生を思い出します。

それがテレビドラマ化され、新井先生をモデルにしたテレビ番組が何本か作成されました。本が発行されるたびに、別のテレビ局でテレビ撮影が学校に入っていました。取材のカメラが職場に入るなど大変だったでしょう。そんな中で生徒の気持ちを引き付けて担任としても生徒に慕われていました。なぜそんなに生徒に頼りにされるのか感嘆するほどでした。また、意欲的に講演会活動を続けられ、埼玉県や栃木県だけでなく岡山県へ行くなど北から南まで色々の多くの所で講演し、多くの人たちに勇気と励ましを与えてきました。更に、ノーマライゼーション教育ネットワークの代表として、教育委員会との話し合いを実現し、困難な当事者の支援活動を積極的に担ってきました。鎌倉市や神奈川県の教育委員会とも話し合いを実施しました。国立リハビリテーションセンターから困難な当事者が新井先生に紹介されていましたが、新井先生は教育ネット代表として親身になって支援活動を全国的に続けてきました。物静かで落ち着いた姿勢の中で、強い意志と情熱を持って活動する方でした。

皆野中学校時代に、楽器の琵琶を学ぶために横浜の先生の所まで通い琵琶の演奏を習得していました。琵琶の演奏のもと平家物語を語り平曲を行いました。それを授業でやりました。更には、皆野の町おこしと称して、ごぜ歌の歌い手の広沢里枝子さんと新井先生の琵琶を奏でながら平曲を聞かせていました。皆野町の広い会場に観客を沢山集め、琵琶の演奏での平曲とごぜ歌の会が開催されました。親しい友人の高橋さんが軽妙で俳句などをいろいろと聞かせるトークで司会をすれば、新井先生も自らの振り返りを気さくに明るく語る姿は忘れられません。友人や、ごぜ歌の広沢里枝子さん等と協力しこのようなコンサートを何年も継続していました。

新井先生は退職後のことをいろいろ考えていたようです。社会福祉士の資格を取り、悩んだり困難に迷っている人たちの心を安らげる場所「リルの家」を開設するという構想です。親友の高橋さんと共同で秩父の皆野町に開設するという事業です。広い畑の中の建物を改造して、「リルの家」と名付けるそうです。老若男女を問わず、悩みごとのある人などの集まれる場所を作る。自由な話し合いができたり、畑で農作業をすることができる。そんな中で落ち込んでいる人が元気になれる居場所づくりを行うというわけです。私の家の近くでも「ジャンケンポン」と称して、子供たちの勉強を教えたり、老若男女様々な人、迷っている人の元気回復のための居場所があります。そんな大事な福祉活動を考えているとはなかなかできないことです。

退職して2年も立たないうちに、病気で亡くなってしまうなんて思いもしませんでした。 新井さん、安らかにお眠りください。